あじゃみんのブログ

美味しいものや、経営する雑貨店のこと、女性の心身の健康について、その他時事ネタなど好き勝手に書いているブログです。

ゼロリスク社会など、世界のどこにも存在しません。

実は、私デヴィ夫人の本も買いましたし、以前から結構ファンでした。

苦労の末にやっと日本に帰ってきて、あのお年で色々なことに挑戦され、いつまでもお洒落でユーモアもあって・・・。

そして、ブログでも歯に衣着せぬ言いっぷりが痛快というか、よくぞ言ってくれました!という、交友関係の広い夫人だからこその政治批判だったりと、もちろんすべてAgreeではないですが、面白く読んでいたのです。

でも、ここ何回かの地震関連は酷い。

あの人がこういったとか、そういう「根拠を示せない」話ばかりで、多くの読者がいるのに、そして被災地の方も読んでいるのに、恐怖心を煽るような内容ばかりで、本当にがっかりしました。

私は、今政治批判か?ということは書きましたが、いつまでも批判しないでという気などさらさらありません。

少し物流の目途も立って、これからさらに政府には(民主党がダメであろうと与党でいる限りは)頑張ってもらわないといけないので、これからガンガン批判なり提言なりを影響力のある方たちがすればいいと思っていたのです。

でも、夫人のブログではその批判にかこつけて、放射線の恐怖というような記事もあり、書いてあることが間違っているということではなくて、「安全性を計る上では、許容値がある」ということがすっとばされているので、放射線の怖さのみが強調されてしまっているのです。

毒性でもなんでもそうですが、たとえばビタミンCは適度に取ると体に良いものですが取りすぎると発がん性があるというのはよく知られています。

毒にも薬にもなる

という言葉があるように、「一方では毒、一方では薬」というものがあった場合は、せっかくきちんと使えば体に良いのであれば、毒にならないようにするにはどうしたらいいかという観点から、「安全に使用できる基準値」を決めるのです。

また、今回のように薬にはならなくても、放射線は飛行機に乗ったり、通常の生活等でもまったく浴びないということはないので、安全基準が存在します。

地震の際には食べ物に付着したということがあって、その基準はなかったので、暫定規制値を決めたみたいです。

会社で「あんなアホらしい基準値決めるからこうなるのよね」

と話していたのですが、口に入れる物については、日本人はかなり神経質なので、例えば「この値だったら大丈夫」という数値が算出されても、基準値として定められるのは、さらにその何10分の1とか、ものすごく余裕のある数値に設定します。

今回も「基準値」の○倍・・・なのに食べてもまったく問題ないなんてチグハグなことになったのも、その基準値の「余裕」が取られすぎているからだと思います。

ある時驚いたのは「電磁波が怖いので電子レンジを使用しないように呼びかけている人」がいると知りました。

以前付き合いのあった人が「私も使わないようにしようと思う」なんて言ってきたので、「それは自由だけど、いったい何の根拠?」と聞いたことがあります。

電磁波の恐怖というのを目の当たりにしたので、そんなものを子供に使ったら大変というのが理由のようで、ものすごく真剣に考えていらっしゃるようでした。

確かに電磁波を浴び続けるのは体に悪いし避けた方がいいですが、いったいどれだけ電子レンジ使うの?ってことなんです。

そして、電子レンジを使っている時にまん前に突っ立って、電磁波を好んで浴びるわけでもないのに、いったい何をそんなに怖がるのか意味が分かりません。

私は、原発礼賛者でもないですし、農薬もできれば使わない方が良い。

でも、その代替を考えた時に「それをどうするか」の考えもなく、ただ批判だけしていても何の解決にもなりません。

今回のことで原発の反対運動が活発化しているようですし、それは別に構わないのですが、今のままで全国の原子力発電所をクローズして、日本国民はどうやって生活するというのでしょうか。

もちろん、もっと安全な電力供給方法が私たちの生活をまかなえるくらいに作れるのであれば、私もこんなことを書くことはないのですが。

危ないものはないに越したことはないですからね。

でも、危ないかも知れないけど、今の生活に欠かせないとか、代替品がないという場合には、いかにそれを安全に使うかという考え方を持たないと何も使えなくなってしまいます。

最近はそうでもないですが、私の年代以前とか周辺の日本人の大半は、理系でもない限り、あまり「リスク」ということについて勉強する機会はありませんでした。

日本人の言動に0(ゼロ)か100かというのが多いのも、このせいだと思います。

1億数千万の人が暮らすこの国は、物資に乏しく、大半を輸入に頼っています。
エネルギーについても、原子力が必要なほど電力を消費する国だったからこのように増えたわけです。

であれば、いたずらに「全部反対」ではなく、この事故を教訓にして、二度と再びこのような事故が起きないよう、徹底的に安全性を追求していく。

そして、代替としてもっと安全なものがないのかを模索し、追及し、さらに危険性を低くする努力をするということが、生活を守り、人々の安全を守ることにつながっていくと思います。

ダメというのは簡単ですが、ではどうすれば?がなかったら、こんな小さな国で1億以上の人間が生き続けていくのは無理です。

今は、感情的になっても仕方ないとは思いますが、今後の生活を考える上で安全は何もしなくて得られるものではないこと、そして物事には少なからずリスクがあり、ゼロにはならないことを知り、その上で自分達ができる努力をしながら、より安全な社会を作っていけばよいのではないかと思います。

安心・安全といいますが、このふたつはまったく異なるものです。
データを示して「大丈夫」と言われ、実際に大丈夫なのだけれど、「あの人が言うのは信用できない」と不安になるのは、誰しもあることです。

ある人は大丈夫でも、ある人は怖がったり。

不安を取り除くのは大切なことですが、さまざまに違う人の心を基準にして安全性の数値を計ることはできません。

だけど嫌なものは嫌・・・では、国として成り立たなくなってしまいます。

どうか冷静になって、より安全な社会は冷静な判断と行動から生まれるということを知って欲しいと思います。