12月といえば、アレ、そう・・・忠臣蔵ですよ。
赤穂浪士のドラマって、私が子供の頃からやっているので、何十年ものあいだ、ほぼ毎年誰かが大石内蔵助を演じているイメージです。
テレビ東京とかが、年末になると12時間ドラマとかなんとか、結構長いやつをやる時にこの忠臣蔵をやっていたのかなって思うのですが、それはイメージだけかも(笑)
私のお気に入りは中村吉右衛門さんがやった2003年のドラマ。
演技がちょっと歌舞伎っぽいんですけどね、それくらいがちょうどいいんですよ。
水戸黄門だって、最後に印籠を出す時は、毎回とっても大げさですもんね。
面白いのは、内匠頭の正室、瑤泉院(ようぜんいん)の側近の戸田局(とだのつぼね)を2003年と2010年に他のキャストが変わっても梶芽衣子さんが演じているんですよね。
2003年と2010年で7年も経ってるのに、全然印象が変わらないのがすごい。
2010年の大石内蔵助は、なんと田村正和さんがやっていました。
田村さんといえば、眠狂四郎ですけど、大石内蔵助も眠狂四郎もイメージ変わらない(笑)
それはそれでいいんですけどね。
でも、私の中では吉右衛門最強!
さすがに全部見ているわけではないので、誰がやった大石内蔵助が一番とかはまったく分からないのですが、それでも吉右衛門押しですわたくし。
まぁ、鬼平が好きっていうのもあるんですけどね・・・へへへ。
ところで、仇討ちを果たした後は切腹ですね。
そして、武士の切腹といえば辞世の句。
死ぬ前に一句読むアレです。
武士のたしなみとして句を読むというのは当然の教養ですからね。
平安時代あたりに貴族(公家)の皆さんが宮中で句をしたためたものをやり取りしていた雅な習慣ですから、武士だってやらねばってことだったんでしょうね(知らないけど)。
松の廊下で刀を抜くという大胆なことをしてしまった浅野内匠頭は、どんな辞世の句を詠んだのでしょうか。
ドラマを見ていて「あれ?」と思ったのは、下の句が思っていたのと違うんです。
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせむ
私が小さい頃からずっと聞いていたのは、「いかにとやせむ」なんですよね。
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせむ
風に吹かれ散っていく花も春を名残惜しいと思うが、それよりも春を名残惜しく思う私はどうすればいいのかって無念の思いを詠んだのねってわかるのですが、とかせむ・・・だと、いやまぁ、意味は同じようなものですが、どちらかといえば「とかせむ」の方が正しいとする説があるようですね。
「春を名残惜しく思う私のくやしさをどう伝えたらいいのか」みたいな感じでしょうか。
内蔵助、俺は悔しい!
出来過ぎっていうので、これが本当に浅野内匠頭の辞世の句かどうかは疑問が残るという話もあります。
そういっちゃぁ~、300年以上前のことなんて、本当に正確に伝わってるかどうかなんてわからないですからね。みんな創作じゃね?って言われちゃうかも知れませんが、そんなこと言ったら、ロマンなくなっちゃうじゃないですか。
あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし
これは筆頭家老の大石内蔵助の辞世の句とされていますが、主君の墓に対して詠んだとされているようで、実際の辞世の句は、
極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人
だと言われています。
最初のは、なんか晴れ晴れとした感じがよく出ている句ですね。
浮世の月にかゝる雲なし!キリッ!・・・なんて。
二つ目は、仇討ちを終えて、死ぬる自分たちが極楽へ行く道は主君とともに48人でということでしょうね。
なんか、泣けてきます。
でも、それより私は息子の大石主税の辞世の句に涙したのですよ。
あふ時は かたりつくすと おもへども わかれとなれば のこる言の葉
いつも会っている時は、もう話すこともないほど語り尽くしたと思っていたのに、いざ別れの時がくれば言いたいことはまだまだあるような気がして心残りです・・・みたいな意味でしょうか。
16歳ですよ、この時。
まぁ、平均寿命が5、60歳とかそんなもんだった時ですから、16歳ともなれば、しっかりしていたんでしょうけど。
この話って、手垢がついたと思われるくらい繰り返されているわけですけど、やっぱり日本人の心には響くものがあるでしょうねぇ。
今はなんだか人を人とも思わないような世の中になってしまいましたけれども・・・。
偽りの 言の葉にのみ ききなれて 人のまことぞ なき世なりける