あじゃみんのブログ

美味しいものや、経営する雑貨店のこと、女性の心身の健康について、その他時事ネタなど好き勝手に書いているブログです。

のりしろ

のりしろとかいわゆる余白って、中の文章がちきんと見えるようにするために非常に重要だと思うんです。

たかだか1cmくらいののりしろでも、あるのとないのでは大違い。

人間にも「のりしろ」って、必要だと思います。

なんとなく、もともとあって、生きるために大切なものという感じがあります。

最近、報道を見ていても、周りの言動を見聞きしても、この「のりしろ」がないなと思うことが度々あります。

0か100か。

きっちきちで、人への優しさなど、どこに行ったのかなぁ~という感じ。

優しい・・・と思っていても、何かのきっかけで180度変わってしまう。
これって、同じ人?って態度に変わるのは、ページを開いた時ののりしろがないからかも。

人間誰しも、自分が思い描くように生きられることもないし、他人を見て「いいな」と思っても、実は「こんなことが」って人も多いと思います。

羨ましいとか妬ましいって感情は、人間としてある意味普通のことだと思います。

努力してもなかなか上手くいかないとか、そういう時に周囲を見ると、いとも安々とやってのけている人がいる。

それは「キッ!」っとなりますよ、誰でも。

そこで問題になるのは、「はけ口」をどこに求めるか。

ある人は、その「羨ましい」対象に自分の「負」の感情をぶつけたりすることに命を燃やしたりします。

そういう人って、のりしろがないからか、目先のことだけに囚われて、そういう行動が自分にどう跳ね返ってくるか分からないのだと思います。

のりしろをちゃんと持っている人は、「負」の感情がありながら、「でも、自分は自分だから、こうやっていけばいいや」とプラスに持って行くことができます。

その人のようには行かなくても、自分なりに解決策を見出せるとか、きっぱりと諦めるとか、いさぎよい決断を下せるんだと思います。

決して、羨ましいとか妬ましい気持ちがゼロになるわけじゃないけど、余白のおかげで嫌な自分にならなくて済むんですよね。

お金ない、美貌ない、才能もない、そしてもう若くもない・・・ないない尽くしの私が、眉間に皺を寄せた嫌なおばさん顔にならないでいられるのも、のりしろを意識して大切にしてきたからかもと、最近ちょっと思います。

自分がドツボの時って、悪い方にばかり考えてしまいがちだし、それに若い時は余裕がないから「もうだめかも」って思う率は高いと思います。

例えば、結婚まで考えていた彼に振られてしまった・・・泣いて泣いて。。。
私にだって、遠い昔に経験ありますよ。

でも、よーく考えてみたら、恋愛や結婚だけで世の中が成り立っているわけじゃないし、男はその人ひとりじゃないし、そんなことで人生終わりなんて考えるのが馬鹿らしいって、後になってちゃんと分かる時が来るんですよね。

だから、その時は人生どん底!と思っても、時が解決してくれます。

「何があっても生きていかないと」

という心ののりしろがあるから、どん底だの崖っぷちだのという状況でも、なんとか這い上がっていかれるんだと思います。

ここぞという時にのりしろの存在を意識して、自分の人生に活かすためには、やっぱり日ごろから自分以外の人のことも心に留めるとか、本を読むとか、なんでもいいから目先のことではない何かにある程度時間を割くのが重要だと思います。

仕事人間になってもいいけど、寝る前のひと時は、ゆったりした気分になれる音楽を聴くとか、お気に入りの本を読むとか、そういう時間をちょっと持つだけでも、のしりろはちゃんと自分の心に出来てくれると思います。

自分だけで生きているわけじゃないというのは、なかなか意識している人って少ないのでは?

話題が出ると「まぁ、そうだけど」ということはあっても、普段は自分ひとりで大きくなったような顔をして生きていることが多い。

別にのべつまくなしに親のことを考えることもないけれど、人に感謝する気持ちが心の余白を作るのは、本当だなと最近思います。

最近、若い人の自殺のニュースとか、どうしてそんなことを?という内容の犯罪とか、「その後どうなるか」という部分が欠落した事柄があまりにも多くて、悲しくなります。

就職難が原因で大学生の自殺が・・・なんて聞くと、まだこれから人生何十年もあるのに就職できないというだけで、どうして目一杯になってしまうのか・・・。

自暴自棄になって罪を犯して、どういうことが周りに起きるのかが分かっていない。

自分がこうするんだ!もうどうでもいいんだ!

こんな考え方しかできないから、自分の周りに人の人生なんて、まったく考えられない。

逆にそういうことが考えられる人は、そうならないのでしょう。

京都大学カンニングのことも、お母さんにこれ以上負担は掛けられないという思いを持ったまでは良かったけれど、もしバレていなかったとしても、本当にその先の人生をまともに生きられたでしょうか。

カンニングで逮捕というのもちょっとどうかと思いますが、逮捕がなかったとしても、バレたらすべてがおしまいですよね。

他の大学が合格していたって、そんな生徒では入れなかったかも知れません。

それに、他人にバレなかったからといって、自分の心は忘れないでしょう。
母親思いという一面を考えたら、大学に入っていたとしても、自分の不正は一生心に暗い影を落としたのではないでしょうか。

「ちょっと考えれば分かりそう」

ということが、最近考えられない人が多いんですよね。

仕事をしていても、思い込みが激しくて「そういうことじゃなくて、こういう風に考えることもできるんだから、自分が思うことだけに集中するのはやめなさい」とよく後輩に注意をします。

自分の考えていることが「間違っていない」ということに固執して、他が見えなくなるんです。

それ自体は間違っていなくても、この場合は「このことにも焦点を当ててみなくては」という発想が出てこないんです。

だから、仕事が遅れたりするのですが、それを納得させるのが大変。

ちょっと考えれば分かるでしょう・・・が分からないからです。

なんだかツラツラと書いてしまっていますが、何かに集中しないといけないという場合以外は、大体いつも3歩くらい先のことを考えて暮らすクセをつけると、人生が楽になる気がします。

日本人の性質なのか、恵まれているとなぜか自分に起こったたった一部分のマイナスにばかりフォーカスするので、自分で自分の人生を悲しくさせたり、つまらなくさせてしまう傾向がある気がして、なんともやり切れません。

せっかく生きているのだから、何があっても大丈夫!という人になって、余裕を持って生きていきたいと思います。