美和子が部屋でくつろいでいると、電話が鳴った。
「ハロー」
一応、英語で出てみる。
「あっ、美和子さん、こんにちは高井です」
懐かしい声だった。
「お久しぶりです。高井さん、今どちら?」
会った時でいいのに・・・と思いながらも、それからひとしきり電話でお喋りし、夜は北京ダックで有名なチャイムスにあるレイ・ガーデンという中華レストランで食事をすることになった。
高井のことだから、きっと美和子の好物である北京ダックを予約してくれているに違いない。
「あの薄いクレープに巻いたパリパリの北京ダック。。。うう、よだれが・・・」
すでに心は北京ダックで一杯だった。
高井と美和子は、いわゆる男女の関係になったことはない。
あまりにも気が合いすぎて、そういう感情が芽生えなかったこともあるし、美和子自身が根っからの男勝りなところあがり、あまり女性らしさと縁がないからかも知れない。
必然的に男友だちも多くなって、男性との友だちづきあいも普通のことだった。
「さて、仕度するかなぁ」
クローゼットを開けて、着ていく洋服を物色する。
シンガポールは南国なので、超のつく高級ホテルのクリスマスディナーとか、そういうイベントでもない限り、ドレスコードはスマートカジュアルが多い。
結構、「えっ?」と思うような服装でも、観光客の場合は入店を断られることはないのだが、とはいえ、綺麗なレストランやホテルで食事をするのに、あまりカジュアルすぎるのは、マナー違反でもあるし、自分自身が恥ずかしいので、入店の可否というよりは、エチケットとして、ある程度考えた服装は必要だと思っていた。
以前、友人とふたりでシンガポールに来た時、フラトンホテルの1階にある「ポストバー」(フラトンホテルは、以前郵便局だった建物を改装したホテル)というバーに行った時、夜かなり遅くて空いていたにも関わらず、非常口付近の変なテーブルに案内されてしまい、「なにここ?」とふたりで嫌な気分になり、席換えて!と別の席に移動したのだが、そこで気が付いた。
自分達以外の客は、キラキラとしたスパンコールの付いたドレスだったり、男性はジャケットを着ていたりと、たぶんパーティーかなにかの帰りではあるのだろうが、美和子たちのように「Tシャツ」姿の人は誰もいなかった。
それ以来、誰に言われるでもなく、ある程度のマナーは守るように意識している。
「これにしーようっと」
いわゆる屋台だの、ローカルフードが好きな美和子にとって、レストランでの食事はたまの贅沢という感じで、ちょっとした食事用の服は、誰かと会う時に1着か2着スーツケースに入れて持ってくる。
ひとりで時間を過ごすという場合には、まったく持って行かない時もある。
「幸か不幸か、ナンパとか別にされないしーーー」
鏡の前でツーピースをあててみながら、ひとりごとを言った。
夜---
ライトアップされたチャイムスは、観光地のレストラン街というところではあるが、なかなか綺麗なスポットだ。
レイ・ガーデンも美しく、上品にデコレートされた玄関があり、スキッとした制服を着た店員がドアを開けて迎えてくれた。
「いらっしゃいませ」
「あの、ミスター・タカイ名で予約してあると思うのですが」
「ミスター・タカイは既にお待ちです。こちらへどうぞ」
球状のシルクのような光を放つライトが吊るされた天井。
壁の写真などは、レトロな印象を与える写真が多く使われている。
階段を上がってすぐのところには、ウェイティングスペースがあり、
ちょっとしたくつろぎの演出がされていた。
『いつ来ても感じいいなぁ~』
あまり高級レストランに行かない美和子だが、レイ・ガーデンは、たびたび訪れていた。
長い廊下の隅の部屋に案内されると、懐かしい高井道隆が変わらない笑顔で立っていた。
「高井さん、すっごい久しぶり!」
「美和子さんも元気そうで」
しばし再会を喜びあった後、とりあえずビールで乾杯!というところが、日本人的だなと笑ってしまった。
「北京ダックは予約してるから」
「やっぱり!絶対そうだと思ってた!ありがとう」
「あとは、好きなもの頼んでいいよ。色々食べたいだろうから、北京ダックは半分にしておいたし」
「わ~い。じゃ、お言葉に甘えて」
メニューを見ながら、あれやこれやと注文した。
料理を待つ間、航空券まで手配して招待してくれた訳を聞こうとしたのだが、
臨時収入もあったし、久しぶりにシンガポールの食を満喫したくなったから、それなら道連れは美和子が最適だと高井は答えた。
しかし、なんとなくその言い方が「練習しました」的な棒読みっぽい不自然な言い方だったので、美和子は違和感を持ったのだが、ほかに何か言うわけでもないなら、あまり詮索しなくても良いか・・・という気になって話題を変えた。
「きたきた♪」
ビールに合うということで、なんとなく気づいたら揚げ物が多くなってしまったのだが、海老のすり身が入った一口サイズの春巻きに舌鼓を打った。
「美味しい~。やっぱりこうでなくちゃねー」
「あんまり飛ばして北京ダック食べられなくならないように」
高井が笑って言ったが、
「へーきへーき!今日はね、もう卑しいほどにお腹空きまくりできたから!」
美和子が答えると
「僕のこと相変わらず男と思ってないよなぁ」
とちょっとがっかりした声で言った。
「よく言うよ、あっ、これこれ、これが食べたかったの」
次に運ばれてきたのは、やはりいわゆる春巻きだが、通常とちょっと違う工夫がされていた。
「う~ん、これもパリパリ!」
普通の衣ではなく、ヌードルのような形状のものが巻きついて衣となっていた。
中には野菜など、あんかけになった具が入っていて、これも美味しい。
ビールから飲み物は赤ワインに変わっていた。
ふたりとも飲むことも食べることも大好きなので、食の趣味があったから、
友人としての付き合いも長く続いたのだと思っていた。
野菜好きの美和子のリクエストは、海老と野菜の煮物。
少し甘めの味付けながら、きのこや葉物野菜の旨味がこれまたよーく出ていて、好きな一品だった。
「この春雨みたいなのも、味が染みてツルツルの喉越しがいいのよねぇ」
「なんか、料理研究家みたいなコメントだね」
「そう?・・・美味しゅうございました・・・て、この人は記者だっけ」
「料理記者暦40年」
「もう50年くらいになるんじゃないの?」
「まだ続けてたらねぇ」
調べなければ解決しない話題でも、このふたりはいつも盛り上がる。
「豚肉と野菜のスープでございます」
なんだか地味なクレイポットが運ばれてきた。
レイ・ガーデンのもうひとつの名物はスープだ。
その時々でメニューが変わったりするが、具がたくさん入って旨味が出たスープはどれも絶品と評判だった。
以前、ふたりで来た時は、魚と野菜の透き通ったスープを飲んでみたが、れんげですくって舌の上にすべらせた途端、甘い肴と野菜の旨味が広がって、思わずうなってしまったことがある。
今日は、肉系のスープにしようと、豚肉メインのスープをオーダーしてみた。
ちょっと薄いコーヒー牛乳のような色だが、飲んでみると豚の一番美味しい甘みがよく出ていたし、その他の材料が薬膳なのか少し苦味もあり、バランスが絶妙だったので、ふたりとも無言でしばらくそのスープを堪能した。
「ああ、美味しい」
「いやぁ、旨いね」
美和子は、世の中には「食べ物に興味がない」という人が存在することを聞いたことがあるが、食べることに楽しみを見出せないなんて理解できない・・・と本気で思ったことがある。
『体重のことは無視して、私は美味しい物を楽しませていただいちゃうわ』
くひひ#と小声で笑いながら考えた。
いよいよ、レイ・ガーデン名物の北京ダックに使うネギと甘いソースが運ばれてきた。
「気合入るわぁ~」
赤ワインをグビッと飲み込んで、主役の登場を待った。
「北京ダックでございます」
「やった~♪」
思わず声を出してしまい、近くの客からジロッと睨まれてしまった。
「個室じゃなくて、ごめんね」
高井が謝った。
レイ・ガーデンの北京ダックの特徴は、巻いてあるのが薄いクレープ生地だということ。
まったく肉の厚いところが付いていない、パリパリの皮だけが供されるところだ。
美和子は、昔、横浜中華街で食事をした時、この北京ダックをイメージして頼んでしまい、ちょっと肉のところも付いた臭みのあるタイプに閉口してしまった。
それ以来、北京ダックはレイ・ガーデンで食べると決めていた。
この薄いクレープに巻いたダックに、両端が放射状に切ってあるネギを挟んで、ソースをつけて食べる。
「マジうめぇ~」
思わず、ヤンキー口調になってしまい、高井から睨まれた美和子だった。
「ふぅ~。さすがにお腹いっぱいだわー。でも、これを食べないと締めって気がしないのよね」
北京ダックの身を使ったチャーハンを締めとして注文していた。
パラパラの香ばしいチャーハンに細かく切ったダック・ミートがよく合っていて、ヌードルにする人も多いのだが、美和子はチャーハンが一番好きだった。
さすがにこれだけ食べたらデザートはパス!ということで、残ったワインをちびちびと飲みながら、食後の余韻に浸っていた。
「ああ、極楽♪」
ぶはぁ~っといった感じで椅子の背もたれにもたれかかって満足そうに笑う美和子。
だが、高井の顔は対照的に曇っていた。
「美和子さん」
「ん?なに?」
なんだか真剣な感じの声に美和子はだらけた姿勢を正した。
「実は、お願いがあるんだけど」
「お願い?」
旅行で買い物を頼むとか、そういうお願いごとはお互いにしてきたが、こんな真顔で何かを言われることはなかったので、美和子は思わず聞き返してしまった。
「うん、ちょっと変な頼みなんだけど」
「・・・まぁ、私で役に立つことなら」
「ありがとう。実は、美和子さんというよりも、美和子さんの友だちに頼んで欲しいことがあるんだ」
「友だち?私の友だちなんて、高井さん知ってたっけ?会わせたこと・・・なかったと思うけど」
「う、うん。会ったことはないけど、話を聞いたことはあるだろ。よく話に出てくる・・・駒子さんとか」
「ああ、あの人は特別だからねー」
あはは#と笑った美和子だが、高井がテーブルから身を乗り出すようにしているのに驚いて、
「どうしたの?駒子のことなの?」
「そうなんだ。その駒子さんに頼んで欲しいんだよ」
「はぁ・・・なっ、何を?」
「僕の・・・妹と話をして欲しいんだ」
「妹?高井さん妹なんていたっけ?」
「美和子さんには話してなかったけど、僕には5歳下の妹がいるんだ」
「へぇ・・・。5年以上の付き合いなのに、1度も話が出たことないから、なんか変な感じ」
「ああ、それで、駒子さんに頼みたいんだ」
「・・・何を?妹さんにトラブルでも?彼女、別にカウンセラーとかはやってないわよ」
「いや、そういうんじゃないんだ。妹が困っていることがあるんだったら、助けたいと思ってるんだけど、僕じゃ分からないから」
「・・・・・・・・・・・・もしかして」
「・・・そうなんだ」
「・・・・妹さんて」
「ああ」
「生きてないのね」
「・・・ああ、10年前に事故で死んだ」
「・・・・・・・・・・・・やっぱりぃ」
予想外の展開に天井を仰ぎ見る美和子。
高井道隆は、死んだ妹と話したいのだ。
駒子を通じて。
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