シンガポール、クラークキー駅から徒歩5分程度の場所に会社が借りてくれたコンドミニアムがありました。
キッチンもわりと広めだし、リビングとベッドルーム、それにウォークインクローゼットのある1人用のコンドでしたけど、荷物もたいして持っていない私には、十分な広さでした。
それにバスルームには、この程度の部屋には珍しくちょっと深めのバスタブがあり、私が日本人ということで、会社も気を使ってくれたんだなと分かりました。
35階建ての26階と眺めもなかなかのものです。
緑が多い地区でしたけど、周りは近代的なビルも多くあり、特に夜景が綺麗でした。
常夏というのが、どうかなぁ~と思ったことなど、窓から宝石のような夜景を眺めていたら、すっかり忘れてしまいました。
ただ、ひとつだけ気になったことがあります。
それは家具付きの部屋ということは聞いていたのですが、リビングの壁に綺麗な女性の絵が掛けてあり、それは絶対に外してはダメという条件がついていたんです。
ちょうど、A4サイズをもう一回り大きくしたくらいの、シンプルな額に入った女性の絵でした。
署名などもかすれてしまって読めないので、誰が描いたのかは分かりません。
なんか、見ていると悲しい気持ちになってくるようで、どうしたものかと思いましたが、以前からの持ち主の絵で、この部屋にぴったりだからと賃貸にしても外すのを許さないとのことでした。
なんかいわくがあるのかと、ちょっと怖い気もしましたが、以前まで住んでいた女性と会ってお話しても、特に何かが起こったとか、そんなことは一切ないとのことなので、私が払う分はとてもリーズナブルな金額だったので、この程度の条件ならなんてことないわと入居の際に絵を外さないという承諾書にサインをしました。
今から考えれば、そんな承諾書があるってこと自体、変な話だったんですよね。
透き通った瞳の綺麗な女性。
ソファに座ると、必ず目の端に入るので最初のうちは気になりましたが、忙しい日常を過ごすうちに、まったく気にならなくなってしまいました。
2ヶ月くらい経った頃でしょうか。
同僚と食事に行って遅くなり、0時過ぎに帰宅した時のことです。
シャワーを浴びてから、疲れたのですぐベッドに入って横になっていると、リビングの方かカシッ、カシッという木の棒で何かを叩くような音が聞こえてきました。
「なんだろう」
ちょっと怖かったので声に出してそう言うと、起き上がって様子を見に行きました。
何かあった時のためにと兄が野球のバットをくれたので、いつもベッドの脇に置いてあります。
大袈裟な気はしましたが、念のためにバットを持ってそっと部屋を出ました。
電気を点け、リビングを見渡しても、特に変わった様子はありません。
カシッという音もその時は聞こえず、やはり気のせいかと思って部屋に戻りました。
それからベッドに入って、しばらく本を読んでいたのですが、その時にはもう特に音なども聞こえず、やはり気のせいだったかと、電気を消して寝てしまいました。
思えば、あの音が予兆だったのかも知れません。
それから、1週間くらい経った日のことです。
ベッドに入って本を読んでいると、またあの音がリビングから聞こえてきました。
その日は別段疲れていたわけではないので、これは錯覚でもないだろうと、また起き上がってそっと部屋を出ました。
リビングの電気を点け、部屋を見渡しましたが、不審者がいるような気配はなく、特段変わったところもありません。
でも、なんだか怖いので電気をつけたままにして、寝室に戻ることにしました。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
振り向いてリビングに背を向けた時、視界に入ったものが気になりました。
でも、なんだか振り向いてはいけない気がして、目を向けることができません。
「このまま部屋に入ったら、きっと気になって眠れないわ」
幽霊の正体見たり枯れ尾花。
きっと怖いと思っている心が瞬間的に目に入ったものをゆがめてしまったのだろうと、意を決して振り向いて見ることにしました。
「・・・・・ヒッ?!」
あの、美しい女性の絵が、グニャッと曲がって、まるでもだえ苦しんでいるかのように見え、そして開いた口から何かの言葉が発せられているような気がして、少しの間目を背けることができませんでした。
たぶん、ほんの数秒のことだったと思います。
我に返った私は、すぐに寝室に戻ると、身の回りの物を持って外に出ることにしました。
とにかく、この家から出なくては・・・。
怖いのを我慢して、必死になってお財布や携帯電話をバッグに入れました。
「・・・・・・・・・・・」
ここまで来て、家を出るのであれば、あの絵の前を通って行かなければ外に出ることができないことに気づきました。
もう何ヶ月も暮らしているのに、あまりに慌ててしまったからか、そんなことに気づかないなんて、おかしな話です。
あんなものを見てしまっては、またその絵の前に行くなんて、できるはずありません。
仕方ないので、友人に電話をして、来てもらうことにしました。
夜中でしたが、背に腹は代えられませんから。
トゥルルルル
トゥルルル
トゥルルル
呼び出し音は鳴っていますが、なかなか出てくれません。
宵っ張りでいくら夜中とはいえ、絶対に起きているはずです。
トゥルルルル
トゥルルル
トゥルルル
カチャ
「あっ!藤間さん?」
同じく日本から来ていた男性で、「とうま」という同僚の名前を呼びました。
「・・・・・・・・・・・」
通話中になっているにも関わらず、相手の声はまったく聞こえてきません。
「もしもし!藤間さん!もしもし!」
必死で叫んでも、一向に返事が返ってこないのです。
「・・・・・・・・・・・・」
たまたま寝付いていたところを起こしてしまって、きっと寝ぼけて電話に出たんだ。
そう思った私は、声のトーンを落として
「ごめん、藤間さん、起こしちゃった?」
今度は、優しく言ってみました。
「・・・・・ククククク」
「?!」
それは、藤間さんの声ではなく、女性のちょっと甲高いような笑い声でした。
「・・・誰?」
「・・・・・ククククク。誰に電話しても無駄だよ・・・ククククク#」
「?!」
次の瞬間、携帯電話を放り出していました。
しばらくして考えたら、私に話しかけた言葉は、日本語ではなかったことに気づきました。
たぶん、大陸の方の、古い言葉だったと思います。
大学生の時、文化交流の名の下に中国からの留学生とあるプロジェクトを計画し、中国語を勉強したことがあり、かなり古い言語なども多少の知識が付くまでになっていました。
決して流暢とはいえませんが、シンガポーリアンともカタコトの中国語で会話したり、ふざけ半分のような会話でしか使えませんでしたが、ある程度中国語は使えました。
すっかり諦めた私は、リビングから聞こえてくるカシッ!という音を聞きながら、朝まで部屋の隅で閉めたドアをじっと見つめて、一睡もせずに過ごしたのです。
続きは ↓