あじゃみんのブログ

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聡子の独白3 ~シンガポール大検証~

歴史に疎い私には、藤間さんの話は衝撃的でした。

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真珠湾奇襲攻撃の1時間前、つまり1941年12月8日未明に、日本陸軍はマレーシアに上陸し、イギリス軍の要衝だったシンガポールに向けて南下し、翌年2月にシンガポールに到達し、イギリス軍を降伏させた。

山下奉文大将率いる日本陸軍は、イギリス軍の降伏から4日後の1942年2月19日に街中にこんな紙を貼り出した。

昭南島シンガポールの日本名)在住華僑18歳以上
50歳までの男子は、きたる2月21日正午までに左の地区に集結べし。(以下略)

大日本軍司令官

この貼紙を見て、華僑の人々はついに恐れていたことが起こったと震え上がったという。

彼らは長い間蒋介石重慶政府に莫大な財政援助を続け、反日運動を積極的に行ったからである。そして、戦争が始まると華僑義勇軍を組織して日本軍と交戦していたことも、このことを恐れる原因となっていた。

中でも、マレー共産党員で組織された華僑の抗日華僑青年の一隊は、日本軍の悩みの種だった。

イギリス軍が降伏した後も彼らは隊服を捨てて市民の間に紛れ、あちこちで放火や集積弾薬の爆発事件を引き起こしていたからだ。

これは明らかに国際法違反であり、このゲリラ戦についてジャーナリストのイワン・モリソンは、「この軍事的闘争の結果としてシンガポールの中国人が日本軍によって過酷な報復をされるであろうことを憂慮する」と書いている。

 

シンガポールの治安維持に当たっては、山下奉文軍司令官からは「速やかに市内の掃討作戦を実施し、これらの敵性華僑を剔出処断し、軍の作戦に後顧の憂いなきようにせよ」との指示が出された。

シンガポールに攻め入る際、山下司令官は「焼くな、奪うな、犯すな」を厳守すべしとの命令を下し、占領後も市内には憲兵隊のみを入れて治安維持に当たらせ、戦闘部隊は市外にとどめて不祥事の発生を予防するほどの配慮見せていたのを見ると、華僑に対する粛清はあくまで「ゲリラ掃討作戦」であり、無差別な殺戮を指示したものではなかった。

抗日分子を見つけるに当たり、

日本軍及び日系住民に対しゲリラ活動をおこなった者
国民政府への財政援助に関わったないし実際に援助した者
東南アジアを拠点に抗日活動を続けていた陳嘉庚の支持者ないし関係者
レジスタンス関係者・支持者
イギリス植民地時代の公務員・法曹・立法会議員
黒社会など秘密組織や反社会的組織に関わっていた者
日中戦争以後に移民してきた者
海南省出身者(日本軍は多くの共産主義活動家が紛れ込んでいると見ていた)
取り締まりに抵抗した者や逃亡しようとした者

という、これらの人々を「好ましからざる人物」として、重点的に検証をおこなったうえ抗日分子を処刑したといわれている。

しかし、本来どうやって「抗日分子」だと見極めたのか、「抗日」とした根拠は何なのかなど、曖昧な点も多くあり、一部の部下たちの越権行為や背信行為で、当初の目的であるゲリラ掃討作戦は、大量殺戮へと移ってしまった。

もともと、華僑の成人男性は20万人ほどいたとされ、この中の誰が「ゲリラ」であるかを見極めるのは困難を極めた。

「メガネを掛けていたらインテリ」だとか、およそ考えられないような方法で人々を選別していき、ゲリラと認定された人は拷問を受けた。

この粛清(シンガポール大検証)での犠牲者は5千万人から7万人という諸説あり、日本軍及びシンガポール政府の側にも正確な記述が残っていなかったため、現在まではっきりとした数字は分かっていない。

このようなことが行われている最中、後の証言で女性も抗日運動に参加し、捉えられて拷問を受けた人々もいたという。

それほどに日本軍に対する華僑の憎しみは大きかった。

 

「戦争って、本当に恐ろしいものね」

 

藤間さんはオブラートに包んだように、残虐な描写など一切しなかったけれど、なぜか私の目には、日本軍に受けた拷問で苦しんでいる女性の姿が映っていました。

 

「聡子さん、泣いてるの?ごめん、もっと簡単に話せば良かったね」

 

藤間さんは私の手を取って優しく言いました。

 

「いいえ。藤間さんは何も悪くないわ。涙が出るのは、きっと絵の女性が何か訴えてきているからだと思う」

 

そういって、少し微笑みました。


藤間さんには、自分の責任で私が傷ついたとか、思って欲しくなかったからです。

ふたりでお茶を飲んだ後で、絵を元通りに戻し、私が落ち着いたのを確かめてから、藤間さんは帰っていきました。

 

「ワン・フーメイ

 

ただ、名前が書いてあっただけですが、この絵が汪 芙美という女性の肖像画だということは、私の中で確信に変わっていました。

そして、藤間さんの話の時、私の脳裏に浮かんだ女性、日本軍に拷問を受けている女性は、紛れもなくこの女性だったのです。

 

「私が日本人だから?だから、訴えたの?・・・・?!」

 

語りかけていた私の目の前で、また絵がみるみるゆがんでいきました。

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

それは、恐怖というより、底のない悲しみ・・・そして怒りでしょうか。

それから私はその絵の中に吸い寄せられるような感覚に陥り、気づいた時には朝になっていました。

絵は、また普通の状態に戻っていましたが、私はもう元の自分には戻ることができませんでした。

その日から、毎日彼女の拷問風景を夢に見て、ある場所の光景が私を誘っているように何度も何度も目の前に迫ってきました。

心配する藤間さんには、「もう何でもないわ」と嘘をついていましたが、彼は明らかに疑っていたようです。

また絵を見に来たいと何度も言われましたが、私は断り続け、藤間さんと距離を取るように、そう、避けるようになっていったのです。

私は毎日毎晩、電気を通されて拷問される彼女の夢を見ました。
そして、いつしか汪 芙美と自分が重なって見えるようになっていったのです。

 

彼女の苦しみは私の苦しみ。

体を走る痛みが本当に私の体に走りました。

そして、気づけば腕や首筋に痣が出来ていたのです。

本当なら、ここで助けを求めていれば良かったのかも知れません。
でも、私はこの痛みを受けるべきだと思い込み、毎日痛みに苦しんでも、それは私の受けるべき痛みなんだと思っていたのです。

ある日、藤間さんが誰かを連れてやってきました。
エントランスで、すぐに帰って欲しいと言ったのですが、何度も頭を下げるので仕方なく部屋に通しました。

藤間さんと一緒に来た男性は、私の目をじっと見たり、脈を取ったりしたので、お医者さんなんだと分かりましたが、私は病気でもないのに何故こんなことをされるんだと不思議に思って、なんだか怒りが沸いてきたのですが、その先生は「サカマツ」という日本人の男性で、物腰が柔らかくとても優しい人でした。

 

私の目を見ながら、

 

「大丈夫。すぐ終わるからね」

 

と微笑んでいました。

 

「はい。わかりました」

 

私も素直にうなずいたのですが、その後で藤間さんが傍にいないことに気づき、彼が立っていた方に目を向けると、キッチンの方から何か物を壊すような音が聞こえてきたのです。

 

「大丈夫、なんでもないよ」

 

なぜか焦ったように言うカサマツ医師の言葉にハッとした私は、彼の手を振り切って音のする方に駆けていくと、キッチンで藤間さんがあの絵を破いて燃やそうとしていました。

 

「やめてぇーーーーー!!」

 

ありったけの声を上げて止めようとしましたが、追ってきた医師に後ろから押さえられ、どんなに抵抗しても藤間さんを止めることができませんでした。

 

「・・・・やめろ!!やめろーーーー!!」

 

いつしか、私の口からは誰とも分からないような声でそう叫ぶ声がしました。

 

「やっぱり。聡子さん、しっかりしなきゃだめだ。きみはこの絵にとり憑かれているんだ」

 

藤間さんはそう叫ぶと、火の中に破いた絵を投げていました。

 

「やめろーーーーー!やめるんだぁーーーー!!」

 

意識ははっきりしていたと思いますが、もう自分が自分でなくなっていることをこの時初めて認識したのです。

私の口から発せられているその声は、何か地の底から出てくるような低い声で、とても女性の声とは思えないものでした。

 

「聡子さん、そいつはもう死んだワン・フーメイじゃない。ただ恨みが集まっただけの思念、怪物だよ」

 

藤間さんの言葉に私の中の何かが目覚めました。

 

「怖い・・・助けて」

 

なんとか自分の声で言ったつもりでしたが、私の耳には相変わらず深いくぐもった声で叫ぶのが聞こえていました。

 

「・・・痛い!」

 

腕に何か痛みが走りました。
そして、いつしか意識は遠のき、目の前が深い闇に包まれていきました。

 

 続きは ↓

 

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