眠れない夜を過ごし、窓から朝日が差し込んできた頃、ずっと続いていたカシッという音が消えました。
何をするにしても、あの絵の側を通ることになるので、長いこと動けずにいましたが、やはり夜と違って明るいということは、人を元気にするのですね、思い切って絵を見に行くことにしました。
「・・・・・・・」
その絵は、なにごともなかったように綺麗な姿を私に見せていました。
「どうして・・・・」
もしかしたら、仕事で疲れているのかも・・・そう思いながらも、そんなことはないという思いもあって、しばらくその絵に見入ってしまいました。
「・・・・・?」
気づくと、額の後ろから何かがはみ出しています。
「なんだろう」
恐る恐る手を伸ばして触ると、紙切れのようだったので思い切って少し引っ張ると、スルッと落ちていきました。
「・・・・・なにこれ?」
それは、5cm四方の茶色がかった紙切れで、よく見ると文字が書いてあります。
「・・・・monster will kill her?」
書かれた文字は英語で、訳せば「怪物が彼女を殺す」でしょうか・・・。
「いったいなにかしら」
以前見た時は、こんなものなかったはずなのに、今になって額の裏から出てくるなんて、偶然といっても昨日のことといい、なんだか気味が悪くて、すぐにその紙をゴミ箱に捨てる
と、シャワー
を浴び、服を着替えて外に出ました。
一睡もしていないのに、その時はまったく眠くもなく、却ってすっきりとした気分でした。
出社して、前日に電話を掛けようとした藤間さんに昨夜の出来事を話してみることにしました。
彼は、私よりも5年ほど早くシンガポール支社に勤務しており、シンガポールの歴史にも興味があって国立博物館や図書館に通いつめて色々と勉強しているのを知っていまし
たから、あの美しい女性の絵については、なんとなく彼になら話してもいいような気がしたのです。
お昼休みの後、藤間さんをお茶に誘って、思い切って今までのことを話してみました。
「ふーん。絵をはずしちゃいけないなんて、不思議な話だなぁ~。前の住人は何か言ってなかったの?」
「ええ、私の前の人はアメリカ人の女性で1年半暮らしたって言ってたけど、とても快適でいい部屋よって言ってたし、絵のことにしても、綺麗な女性を眺められて良かったって、怖いなんてまったくないみたいだった」
「聡子さんのことを心配させないようにってことはない?」
「う~ん。それは分からないけど、でも、本当に何にも感じてないみたいだった。隠してたら、多少は態度に出るでしょ?」
「そうだなぁ」
藤間さんは、しばらく考え込んでいましたが、
「その絵、見せてくれない?」
というので、ひとりで帰るのが怖かったこともあり、ぜひと返事をして仕事に戻りました。
5時半にビルの下で待ち合わせして、自宅に向かうことになったのですが、チリクラブが食べたいという藤間さんの言葉に同意し、クラークキー駅からすぐのお店に向かいました。
幸い、早い時間だったので予約なしでも席が取れ、お目当てのチリクラブとバンズを注文して冷たいタイガービールで乾杯しました。
それからは、シンガポールでのお互いの生活や食べ物の話で盛り上がって、しらばくは私の家に行くことなど忘れてしまっていたほどでした。
気づくと、既に8時を回ってしまい、本来の目的を思い出した私たちは急いで会計を済ませると店を出ました。
自宅に着くと、すぐリビングに行き、その女性の絵を藤間さんに見せました。
「へぇ、綺麗な女性だね。中国系かなぁ、ちょっと南国的な感じもするけど。実在の人物なのかな」
藤間さんは、ひとしきり近づいてその絵を眺めていましたが、突然額に手を伸ばして壁からその絵を外してしまいました。
「あっ、ダメよ、それ外したらいけないんだから」
「大丈夫、ちゃんと戻せばさ。それに別に誰が見ているわけでもないし」
藤間さんはそういって、私にウインクまでして見せました。
「もう・・・」
彼のそいういう茶目っ気のあるところが好きだったので、黙って事の成り行きを見守ることにして、キッチンにお茶を入れに行くことにしました。
「あれ?」
リビングを出ようとしていた私の後ろで、藤間さんがつぶやいたのが聞こえました。
「どうかした?」
「いや、どうもしないけど、これ、名前だよね」
そう言って絵を差し出すので見てみると、藤間さんは絵の額の蓋を開けてしまっていて、中のキャンバスがむき出しになっていたのです。
「やだ・・・大丈夫、開けちゃって」
「平気、平気。それより、これ見て」
開けたところを指さしているので見てみると、かろうじて読めるくらいのかすれた文字で何か書いてあります。
「・・・・汪 芙美?なんて読むのかしら」
「たぶん、ワン・フーメイだろう。ここの数字は何だろう、生年月日かなぁ」
見れば、名前と思われる文字の下に1942. 8.21と書いてあります。
「いや、違う。1942年ということは、シンガポールで華僑の粛清が行われた年だ」
藤間さんは、険しい顔をして言いました。
「粛清?・・・ごめんなさい、無知で申し訳ないけど、シンガポールのことはあまりよく分からないわ」
素直にそういうと、藤間さんはちょっと困ったような顔をしました。
そして、
「戦争当時の話だよ。酷い話だ」
とても悲しそうな顔をしてそう言うと、ソファに腰を掛け、ゆっくりと話し始めたのです。
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