若者がこのブログを読んでいると思っていないので、仇討ちといえば”赤穂浪士”だというのは分かっていただけるでしょうか。
先のブログ記事には、幕府公認の仇討ち制度をご紹介しましたが、赤穂浪士の仇討ちはどうだったのでしょうか。
刃傷・松の廊下
話は、元禄14年3月14日 (1701年4月21日)に起こった、江戸城・松の廊下での刃傷沙汰に始まります。
この日、江戸城では将軍綱吉の勅使接待(朝廷の使者を迎える儀式)という、とんでもなく格式の高いイベントが行われていました。
その準備役として呼ばれていたのが、赤穂(現:兵庫県赤穂市)藩主・浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり) と、高家筆頭の 吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ)。
吉良上野介は、ただの武士ではありません。
彼は 「高家(こうけ)」 と呼ばれる、将軍家の儀式や格式を司る“礼法のプロフェッショナル”でした。
その中でも吉良は 高家筆頭。
つまり、
- 朝廷とのやり取り
- 将軍の公式行事の進行
- 大名の格式の管理
- 礼法の指導
といった、武士社会の“儀式と格式”を統括するトップの立場にあったのです。
吉良上野介は、戦場で槍を振るうタイプの武士ではなく、儀式・典礼の専門官僚 といったほうが近い存在でした。
武士というと「刀を抜いて戦う戦闘部隊」というイメージが強いですが、実際にはこうした “戦わない武士” も多く存在していました。
吉良はその中でも、将軍家の格式を司る高家のトップという、非常に特殊で重要な役職にあったのです。また、足利将軍家の一門(吉良氏)で、室町幕府の“源氏の嫡流”にあたる超名門の出でもあったのです。
その江戸城での大切な儀式に向かう最中、こともあろうに浅野が突然、その儀式の指導役である吉良に斬りかかった のです。
「この間の遺恨、覚えたるか!」
という、あまりにも有名な言葉を叫んで・・・。
吉良は軽傷で済みましたが、江戸城内で刀を抜くこと自体が絶対の禁忌。
理由がどうであれ、言い分がどうであれ、「斬った時点でアウト」というのが幕府のルールでした。
起こった時点でお家断絶は決まり、刃傷沙汰を起こした当人はもちろん切腹、その時点で家臣はすべて職を失います。
浅野内匠頭が藩主を務める赤穂藩は、およそ5万3千石(米で換算)の領地です。
領内で取れる赤穂の塩は、高い品質を誇っており、そのため赤穂の財政はとても潤っていました。実際には現金収入も多く、7万石から8万石の価値はあったようです。
そのため、5万石の大名にしては豪勢な城を建てたことでも有名でした。
上級・中級武士としての家臣(部下)はおよそ300人。
お城をささえる下級武士や足軽・中間(ちゅうげん)は約800人。
浅野内匠頭は、その家臣と家族たちの“上司”にあたる存在でした。
つまり、浅野内匠頭が起こした刃傷沙汰というのは、その家臣と家族たちを、一瞬にして路頭に迷わせる行為だった わけです。
そして影響を受けるのは武士だけではありません。
お城には、武士のほかにも多くの人が働いていました。
料理人、大工、庭師、馬の世話をする人、役所仕事を手伝う下働き、清掃や雑務を担う人たち、こうした“城下の仕事人”たちも、即クビですから、全員が失職することになります。
藩主の刃傷沙汰は、数千人規模の生活を一瞬で吹き飛ばす出来事だった のです。
さて、江戸に話を戻します。
松の廊下で刀を抜き、吉良上野介に切りかかった浅野内匠頭ですが、当時持っていたのは 脇差(わきざし) といって短い刀でした。
城内では長い刀(打刀)は入口で預ける決まりがあったため、浅野が持っていたのは“短刀に近い武器”だったのです。
この脇差で人を殺めるのは現実的にはほぼ不可能で、事実、吉良が負ったのは背中と額の傷のみ。
命に別状はなく、別室で外科医に手当を受け、しばらくの療養で済む程度でした。
つまり、浅野がどれほど激高していたとしても、その場で吉良を討ち取ることなど最初からできない状況 だったわけです。
さらに、「殿中でござる!」と叫びながら浅野を後ろから羽交い絞めにした人物がいて、それ以上の攻撃はできませんでした。
この人は、幕府側の旗本に仕える梶川与惣兵衛(かじかわ よそべえ)という人物でした。彼は江戸城内の警備を担当する役目で、その場に居合わせたため、浅野を取り押さえることができたのです。
この松の廊下での刃傷沙汰の報を聞き、五代将軍・徳川綱吉は激怒しました。
この日は朝廷からの勅使(天皇の使い)をもてなす最も重要な儀式の当日でした。
面目を潰された第5代将軍・徳川綱吉は「朝廷への不敬」として烈火のごとく激怒しました。
松の廊下での刃傷沙汰のあと、直ちに幕府目付の部屋(お調べ所)へ連行され、烏帽子や儀式用の正装である「大紋(だいもん)」を剥ぎ取られ、下着にあたる熨斗目(のしめ)小袖姿にされました。
身柄を預かる「御預け(おあずけ)先」として、左京大夫・浅野大学(内匠頭の弟)の親戚筋ではない、外様大名の田村右京太夫建顕(陸奥一関藩主)が急遽指名されました。
内匠頭は罪人用の「網輿(あみこし)」に乗せられ、江戸城平川門から出されて芝愛宕下にある田村邸(現在の東京都港区新橋4丁目周辺)へと厳重に護送されました。
午後4時頃に田村邸に到着した内匠頭は、奥の座敷に収容されました。
障子には網が張られ、不測の事態(自害など)を防ぐために厳重な警戒が敷かれました。
田村家側から湯漬け(または一汁五菜の膳)と、最後に「お茶」が差し出され、内匠頭はこれを静かに口にしたと伝えられています。
これがこの世での最後の食事でした。
即日切腹は、異例の速さだった
通常なら数日かけて吟味(取り調べ)を行うところ、将軍・徳川綱吉の強い意向により、その日のうちに「切腹」と「赤穂浅野家お家断絶」が決定します。
この異例の速さからも、綱吉の怒りの強さがうかがえます。
一方、吉良上野介に対しては「お構いなし(お咎めなし)」とされました。
夕方、幕府の正使(検使役)として大目付・庄田下総守(おおめつけ・しょうだ しもうさのかみ)目付・多門伝八郎(めつけ・おかど でんぱちろう)らが田村邸に到着し、内匠頭に正式に「切腹」が言い渡されます。
本来、5万石の大名クラスの切腹は座敷で行われるものですが、あまりにも急な決定だったため準備が間に合わず、田村邸の庭先に白木綿を敷いただけの急造の切腹場が設けられました。
これは庄田下総守が「準備不足」を理由に命じたもので、部下の多門伝八郎は「浅野家は代々幕府に仕えてきた名門であり、内匠頭は一国の大名です。いくら罪人とはいえ、庭先で切腹させるなど前代未聞。武士の情けに反します!」と猛抗議したものの、聞き入れられませんでした。
余談ですが、一国の大名を将軍の手前良かれと思って庭先で切腹させた結果、このふたり、のちに浅野家の本家の広島藩から幕府への猛抗議があり、この事件から庄田は約5か月後、多門は約2年後にクビになってしまいました。大目付の庄田は、「大目付のくせに現場をまともに確認もせず、名門の面目を潰した無能」とみなされ、将軍・綱吉の怒りを買ってのクビだったようです。お給料などはそのままでしたが、城への登城も許されず、いわゆるニート生活。周囲には白い眼で見られ、さんざんだったようです。部下の多門も「私は止めたのに聞かなかった」と上司を売ったため、困ったやつとして上層部から徹底的にマークされるようになりました。多門はもともと正義感が強すぎる「頑固者」で、その後も別の仕事で上司や同僚とことごとく意見を衝突させて揉め事を起こしました。結果、「組織の和を乱す奴」として煙たがられ、ついに「お役御免(クビ)」となり、仕事のない窓際族(小普請組)に落とされてしまいました。
辞世の句は後世の創作
事件発生から切腹まで、わずか 8時間。
有名な辞世の句「風さそう 花よりもなお 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
現代語訳:春の風に誘われて散っていく桜の花(のような吉良の生存)でさえ名残惜しいものだが、それよりもなお、志半ばで急にこの世を去らねばならない私は、この残された春への未練(討ち漏らした無念)を、一体どう処理すればよいのだろうか(いや、どうしようもない)
しかし、これは現在では多くの研究者が 「後世の創作」 と考えています。
理由は以下の通り:
この句が初めて登場するのは、多門伝八郎の回顧録(多門筆記)だが、この資料自体が後世の偽書・脚色の可能性が高い
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この句が初めて登場する多門伝八郎の回顧録(多門筆記)は、後世の偽書・脚色の可能性が高いこと
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本当に浅野がこのような辞世を残していたなら大石内蔵助らが討ち入りの大義名分として必ず使っていたはずだが、当時の一次史料(浪士たちの書状など)には一切登場しないこと
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そもそも、急造の切腹場・厳重な監視・時間のなさから、辞世を書く余裕があったとは考えにくいこと
また、ドラマでよくある「家臣が駆けつけて主君と無言で対面する」シーンも創作で、実際には江戸にいた浅野の家臣たちは田村邸に入ることすら許されませんでした。
このため、主君の最後の声を聞いた者は実際には存在しませんでした。
つづく