あじゃみんのブログ

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連載:仇討ちご免 ~赤穂浪士47人その3 赤穂城開城からお家再興消滅まで~

大石内蔵助は、藩士たちから血判状(神文)を集めて結束を確認した後、赤穂城の開城に向けた莫大な金銭の後処理を極めて緻密に行いました。
ドラマではよく”昼行燈(ひるあんどん)”というあだ名がついていたと言われる大石内蔵助ですが、実際の家老としての手腕は見事なものでした。
ちなみに「昼行燈」とは、現代でいえば無駄に明るいだけで役に立たない“便所の100W(ワット)”と同じような意味でしょうか。
しかし、この時の大石はまったく「無駄」ではありませんでした。

見事なマネジメント能力を発揮

まず、浅野大学(内匠頭の弟)を当主としてお家再興の嘆願を幕府に願い出つつ、当面はなくなる赤穂藩の後処理を完璧にこなしました。
当時、赤穂藩が発行していた「藩札(紙幣)」の信用を守るため、大石は城内にある金銀をかき集め、市場に出回っている藩札をすべて正貨(本物の金銀)と交換しました。これにより、領内の商人や領民が経済的破綻を迎えるのを防ぎ、赤穂の経済を守りました。
また、藩札の回収後に残った藩の資金を、大石は藩士たちの格付け(知行高)や家族構成、独身か既婚かといった状況に応じて、極めて公平に分配しました。
浪人(失業者)となる部下たちの、当面の生活費や引っ越し資金(退職金)とするためです。

これによって、「こんな殿様のためにやってらんねぇ」と討ち入りには加わらずに去っていく武士たちも一律で退職金を受け取ることができました。
ただし大石は、この金を一度に全額渡すのではなく、城を退去する時など、節目に分けて支給しました。
手元に大金があると計画的に使えず、後々部下たちが困窮することを見抜いていたのでしょう。
ここにも、大石の深い優しさと高いマネジメント能力をうかがうことができます。

大石は、藩の公金をすべて分け与えたわけではありませんでした。
自身を含む、将来的に浅野家再興の運動や吉良への復讐(討ち入り)に動くであろう中核メンバーのために、まとまった額の「遠路御用金(活動資金)」を密かに貯めておきました。この資金が、後の京都・山科での生活費や、江戸への旅費、武器の購入費に充てられることになります。

瑶泉院の実態

また、亡くなった内匠頭の正室である阿久里(あぐり)は、夫が切腹した後に髪を落として出家し、瑶泉院(ようぜんいん)と名乗りました。
ドラマでは、討ち入り直前の大石が瑶泉院に暇乞い(いとまごい)をしに行き、仇を討ってくれると信じていた瑶泉院が、本心を隠す大石を「ふがいない部下だ」となじる名場面が描かれます(南部坂雪の別れ)。
しかし、実際にはスパイがウヨウヨいる中に会いに行けば、綿密に立てた計画が台無しになってしまいます。
そのため、大石が瑶泉院を直接訪ねることはなく、実際には秘密裏に手紙のやり取りを重ねていたと言われています。
瑶泉院は大石の良き理解者であり、自身の資産を浪人になってしまった家臣たちのために差し出すなど、陰ながら大石たちの経済面を支え続けた“もう一人の立役者”でもありました。

赤穂城開城の日

いよいよ、赤穂城開城の日がやってきました。

元禄14年4月19日(新暦1701年5月26日)、新暦でいえば初夏の風を感じる季節ですが、史実によると、この日の赤穂は「朝方は小雨がパラついたものの、昼前からは一転して五月晴れの暑い一日」だったと記録されています。

まるで、藩士たちの涙の雨が上がり、覚悟の晴れ舞台を迎えたかのようです。

城を受け取りに来たのは、隣藩の播磨新宮藩や龍野藩の藩兵たちでした。
彼らは「赤穂藩士たちが絶望のあまり、暴動を起こすか籠城するかもしれない」と、完全武装で極度の緊張感を持って赤穂城へ入城しました。

今のように電話もメールもない時代。

いくら隣藩とはいえ、城内で不穏な動き(玉砕覚悟の抵抗)がないか、本当に直前まで分からず恐怖していたのでしょう。

ですが、入城した藩兵たちは愕然(がくぜん)とします。

チリ一つ落ちていない綺麗に清掃された室内。そして、一点の曇りもなくまとめられた武器や米蔵の管理目録。

これらを引き渡すために迎えた大石たち家臣の整然とした様子に、敵方からは「さすがは大石、見事な家老だ」と感嘆の声が漏れたと伝えられています。

こうして、武士としてのプライドを守りつつ、お家再興の望みをまだ捨てていなかった大石たち家臣は、静かに赤穂城を明け渡したのでした。

赤穂城開城後の浪士たち

城を明け渡した大石内蔵助は、お家再興を祈りつつ、京都の山科(やましな)という土地に移り住みました。
大石がなぜこの地を選んだかというと、人目につきにくい閑静な田舎でありながら各方面への交通の便がよく、同志たちと秘密の会合(密議)を開くのに最適だったからです。万が一お家再興が叶わなかった場合は最終的に吉良を討ち取ると決めた元家臣(浪人)たちは、市中でさまざまな職業に身をやつして吉報を待ちました。
とにもかくにも、大石たちの第一の願いは、内匠頭の弟である浅野大学(あさのだいがく)を当主として浅野家を復興させることでした。
皮肉なことですが、もし彼らの願いが通っていたならば、浅野内匠頭の刃傷沙汰も、兵庫の田舎侍にすぎなかった大石たちの名前も、後世に残ったか疑わしい限りです。

しかし大石たちの願いも虚しく、元禄15年(1702年)7月、幕府から「浅野大学の広島藩へのお預け(謹慎処分)」が言い渡されました。
これは、浅野家の復活は未来永劫許さないという、幕府からの非情なお達しでした。こうなったら、当初の予定通り江戸へ渡って吉良を討ち、主君の仇を取るしかありません。大石たちは京都の円山(まるやま)に集まり、正式に「吉良邸討ち入り」の作戦へと舵を切ることになります。
これが世にいう「京都・円山会議」です。

なぜにそこまで?

ここで一つの疑問が浮かびます。そもそも浅野内匠頭が乱心し、絶対にしてはいけない江戸城内での刃傷沙汰を起こしたことで、数千人の領民や家臣が路頭に迷うことになりました。それなのに、なぜ彼らはここまで強固に復讐(討ち入り)を志したのでしょうか。

武士のプライドはもちろんですが、最大の理由は、当時の武士階級の絶対ルールである「喧嘩両成敗(けんかりょうせいばい)」がまったく適用されなかったことにあります。
理由はどうあれ、殿様が城内で刀を抜いた罪は一発アウト(即日切腹)で仕方がありません。

しかし、そこまでのことをするには、それ相応の理由があったはずです。
家臣たちは「いったい殿様の遺恨とは何だったのか、なぜ話してくれなかったのか」と悔し涙を流したことでしょう。
それ以上に、本来のルールであれば、殿様にそこまでの行為を強いた吉良側にも何らかの処罰があって当たり前です。
にもかかわらず「吉良はお咎めなし」という幕府の一方的な裁定に対し、「あまりにも理不尽だ」という猛烈な憤怒が、彼らを死を賭した討ち入りへと突き動かしたのです。

つづく