タイトルの『ルッキズムズムズ』は、外見でジャッジされることへの居心地の悪さを表した私なりの造語です。
ルッキズム(外見至上主義)でムズムズ…と落ち着かない気持ちになるのは、誰もが経験したことがあるのではないでしょうか。
今まで私たち女性は、男性よりも他人による「美醜ジャッジ」の世界で生きてきました。
体型、顔、年齢など、多くの基準で評価されてきたのです。
ボディ・ポジティブ
ボディ・ポジティブの本来の意味は「痩せていない=価値がない」という偏見を壊すことが目的であって、健康を否定するものではなかったのですが、欧米の肥満体インフルエンサーが「肥満でも健康でいられる」というメッセージを発し、世の中の同調もあって、どう見ても不健康な体型なのに「ありのままが美しい」みたいな風潮が生まれました。
ファッションショーでも太ったモデルが堂々とランウェイを歩くというのは、既に見慣れた光景です。
今までのモデルが細ければいいという価値観で拒食症を発症したりした背景を考えると、その点は良くなりましたが、このインフルエンサーたちのように「心臓止まりそう」って思うほどの肥満体を肯定する風潮は、誰がどう見ても行き過ぎでした。
肥満を肯定し、カメラの前で甘い物や大盛りの食事をし、砂糖いっぱいのドリンクを飲んでいたインフルエンサーたちは、次々に糖尿病や心臓発作で死亡してしまいました。
イギリスのDaily Mailにこんな記事がありました。
These four social media influencers were swept up by a movement that claims obesity is perfectly healthy... The tragic truth is they have all died under the age of 45(この4人のソーシャルメディア・インフルエンサーたちは、肥満は完全に健康だと主張する運動に巻き込まれていった……しかし悲しい現実は、彼ら全員が45歳未満で亡くなってしまったということだ)
記事は、ボディ・ポジティブというよりファット(肥満)ポジティブを標ぼうしていたインフルエンサーたちが病気で次々と亡くなったという内容です。
この記事の中で、TikTokでボディ・ポジティブを体現していたブリトニー・サウアーの写真にこんな説明文がありました。
”ブリトニー・サウアーのTikTokページに最後に投稿された動画は、見る者の心を痛めるものだった。涙ながらにカメラに向かって語るその体重31ストーン(約197キロ)のソーシャルメディアスターは、普段は『この服を着ると私はすごくセクシーだ』といった挑戦的なボディポジティブの投稿をしていたが、衝撃的な率直さで『食べ物と過食で自分の人生を台無しにしてしまった』と告白した。”
普通の人から見たら「絶対に病気になるだろ」というほどの肥満体で「セクシー」だの「ビューティフル」だの言っていたブリトニーですが、どうしようもないほど酷い健康状態になった時、自分を偽っていたカメラの前で泣きながら後悔の念を口にしたのです。
彼女はこの告白から間もない時期に亡くなってしまいました。
まだ28歳でした。
細い=美しいということと、まるで正反対のような発信をしながら健康を害して亡くなった人は、この「美醜ワールド」の犠牲者だともいえるでしょう。
単に自分を律することができなかったといえばその通りですが、でも、自分とは真逆の人ばかりもてはやされることが当たり前の世界だったら、こういう反動が出るのも理解できます。
今でも、女性同士でも太ったとか痩せたとか言い合いますが、なんでも言い合っている親しい間柄ならまだしも、そうじゃない人にまで言うとか、頭おかしいんか!って思いますよ。
特にどう見てもダサい中年のおっさんが、女性の容姿の話とかしてると「おまいう」の典型だと思いますね。
♬私がおばさんになったら あなたはおじさんよ
かっこいいことばり言っても お腹が出てくるのよ♬
森高千里さんの歌にありましたけど、自分を理解していない人ほどこの傾向が強いようです。
体型に続いて、私たちは顔でもジャッジされてきました。
容姿端麗
いつだったのか忘れましたけど、宝塚歌劇団が募集要項から”容姿端麗”という言葉を削除すると発表しました。
これを聞いた時「容姿端麗じゃない宝塚なんて誰が見たいんか」と思ったのを覚えています。
とはいえ、宝塚から容姿端麗という言葉が消えても、女性が顔やスタイル・・・特に顔でジャッジされる場面はまだまだ残っています。
たとえば男性芸能人が結婚すると『お相手は”美人”看護師』なんて紹介されることがあります。誉め言葉のつもりなんでしょうけど、職業よりも美人かどうかが先に来る時点で、社会がいかに顔を基準にしているかがよくわかります。
私の名前は、ここでは書けませんが、昭和なら、ごくごく平凡などこにでもある名前です。でも、その名前になったのは、私が生まれた時に”醜かった”から。
東京の下町っぽさの残るところだったので、母が出産したと知って、近所の人たちがぞろぞろと見に来てくれたそうですが、みんな私の顔を見ると”ギョッ”として、誰一人”可愛い”と言わずに帰ったそうです。
普通、お世辞でもひとことくらい言いますよね。
でも、本当に誰ひとり”可愛い”という言葉を口にしなかったそうです。
最後にやってきた近所の板金工場の奥さんは、祖母に向かって「お世辞にも可愛いって言えないわね」と言って帰って行ったそうです。
それがショックで、可愛くなるようにという願いを込めて祖母がつけたのが今の名前です。
そんなことがあったなんて、それを本人に言っちゃうところが我が家族なんですけど、もっとすごいのは、高校生くらいの時、母が私の顔をまじまじと見て、「お前ももう少し可愛く生まれてたら人生変わったのにね」と言ったのです。
「・・・・・・・・・」
普通、他人がどういっても、親はそんなこと言わないでしょう?
しかも自分が産んだ子に・・・。
さすがの私も何も言い返せませんでした。
そんな風に実の親にまでブス認定された私ですが、ブスでも別に困ったことはないので、人生、どうにでもなりますよ。
でも、美人はブスより何万円も得をするって話があって、確かにそうだよねぇ~とは思ったものでした。
バブルで景気のいい時は、綺麗なお嬢さんたちはブランド物のバッグやらアクセサリーやらをごまんと貰っていた時代です。
私、そんなの貰ったことないですし(笑)
いえ、食器以外は、ブランド物自体に興味ないので、くれなくてまったく構わなかったですけどね。
そんな風に女性の人生は、美醜、特に顔が綺麗とか可愛いとかってことが本人の気持ちもなにも無視して、ついて回っているのです。
どんなに美醜に関係ない仕事についたとしても、先の「美人看護師」のように職業の前に冠詞のように容姿に対しての評価がつくのです。
そして、最後は決定的なジャッジ・・・そう、年齢によるジャッジについて書きたいと思います。
いい歳なんだから
これは、自分自身もつい思ってしまうことですが、日本て本当に”年齢ジャッジ”が好きですよね。
「もう何歳なんだから」とか「いい歳をしてみっともない」とか、自分でも思うし、言ってしまいます。
先日、女優の飯島直子さんがご自身の番組で対談した近藤真彦さんに「55歳を過ぎた頃から周りが自分を女性として見なくなったなと感じる」という意味のことを話されていました。
飯島さんは57歳ですが、あんなに若々しくて綺麗な飯島さんでもそんな風に思うのかって驚きましたけど、それを言ったら完全一般ピープルの私なんて、もう化石ですよ(笑)
ニュース番組でも芸能人が出る番組とかでも、名前の後に必ずと言っていいほど(37)とかって数字がついてきます。
これって、年齢ですよね?
今その人が何歳かなんて、どうして世間に発表する必要があるんでしょうか。
何歳なのに若い~!というのも、見方によっては余計なお世話ですよ。
世の男性も若い女性の方が圧倒的に好きですしね。
昔、渋谷の109でエスカレーターに乗っていた時、私の前に異様に映るふたりが立っていました。
1人は、10代後半か20代前半くらいの金髪のものすごく可愛い外国人の女性。
そしてもう1人は絶対50は過ぎているであろう白髪交じりのおっさん。
別にハンサムでも洗練されてもいず、そこら辺を散歩してても普通って感じのおっさんで、あろうことが連れている子を見て、ニコニコ笑って頬っぺたにちゅっ!っとしたんです。
キスされた子は、にこりともせず、というよりうんざりしたような顔でしらっとしていました。
買い物をしたであろう紙袋をぶら下げていて、どう考えても金で釣ってるとしか思えないふたりでした。
なんか、無性に腹が立ったのですが、まったく知らない人ですし、何も言わなかったですけどね。
今思い出しても、胸糞悪い出来事でした。
結局、体型も顔も年齢も、全部“美醜ジャッジ”の物差しの中にあるんですよね。
でも、ジャッジされるからといって人生が終わるわけじゃない。
ブスでも太っていても、いい歳でも、どうにでも生きていける。
大事なのは世間から見て“美しいかどうか”じゃなくて、“自分が心地よく生きられるかどうか”。
過度な自己肯定は、ボディ・ポジティブのような悲劇を生む危険性がありますが、ある程度世間の風当たりも意識しつつ自分らしく生きればそれでいいのではないでしょうか。
結局、ルッキズムってムズムズするものなんです。
だけど、その居心地の悪さを笑い飛ばして、自分らしく生きていければ十分だと思います。
