- 馬鹿な質問とまともな回答
- ひとつの中国
- 台湾の歴史
- Break ”犬が去って豚がきた”
- ニ・ニハ事件
- 国際社会の認識の変化
- 台湾の民主化と現在の立場
- 実効支配の実態
- 台湾の帰属をめぐる国際文書の空白
- 最後に
馬鹿な質問とまともな回答
日本のオールドメディアは連日、高市早苗総理大臣の「台湾有事は日本の有事になり得る」という発言を取り上げ、中華人民共和国(以下、中国)が過剰に反発している様子を報じています。中国は自国民に日本旅行を控えさせ、水産物の輸入を止めるなど圧力を強めていますが、多くの報道は、あたかも日本側に非があるかのような論調です。果たして本当にそうでしょうか。
もともと、高市総理の発言は、立憲民主党の岡田克也議員の質問に対して、万が一台湾が中国に武力攻撃をされた場合という前提の下での発言であり、日本自身が中国に対して武力攻撃を示唆したものではありません。
日本は台湾と地理的に極めて近く、もし台湾が中国によって武力攻撃を受ければ、シーレーンや南西諸島への影響は避けられません。さらに、日本に駐留するアメリカ軍にも攻撃が及ぶ可能性があり、これは日本の安全保障に直結します。したがって、高市総理の発言は「自国を護る」という観点からも、安全保障上の常識的な認識であり、日米同盟の文脈でも自然なものだと言えるでしょう。共産党など左派政党の議員のみならず、質問した岡田議員が所属する立憲民主党の議員たちが高市総理の発言を問題視して連日批判していますが、あなたの所属している党の議員がしつこく質問したことがそもそもの発端なのだから、立憲民主党の高市総理批判はとんだお門違いと言いたいですね。
しかも、中国の主張は多くの西側諸国から「身勝手な言い分」と批判されており、国際社会の見方は日本に近いのです。
ひとつの中国
日本の総理大臣が自国の安全保障問題として発言しただけのことを、中国はなぜこれほどまでに反発するのでしょうか。
その理由は、中国が長年掲げてきた「ひとつの中国」という主張にあります。
中国は「台湾は中国の不可分の一部であり、唯一の合法政府は中華人民共和国である」と位置づけています。
そのため、他国が台湾を独立した存在として扱ったり、台湾有事を国際的な安全保障問題として語ることを「内政への干渉」とみなし、過剰に反応するのです。
つまり、「台湾は俺らのもんや。お前らが台湾について何か言うたらしばくぞ!」――中国はそんなふうに吠えているわけです。
さて、中国が「ひとつの中国」、つまり台湾は独立国ではなく中国に属している中国の領土だーーと主張する根拠は、いったいどこから来ているのでしょうか。
台湾の歴史
その問いに答える前に「台湾」の歴史を少し見ていきましょう。
台湾には、代表的な遺跡として台東県の八仙洞(はっせんどう)遺跡や卑南文化(ひなんぶんか)遺跡があり、調査の結果、約3万年前から人類が居住していたと考えられています。
それから、台湾にはさまざまな先住民族が暮らし、独自の文化を築いていきました。
16世紀になるとポルトガル人が台湾を「フォルモサ(美しい島)」と呼び、17世紀にはオランダやスペインが進出。
やがて清朝が支配を広げ、19世紀末には日清戦争の結果として台湾が日本に割譲され、日本が、そこから50年間統治することになります。
小さな島国である台湾は、遠い昔から外国勢力の支配を受けるなど、国としての力を持つことができませんでした。
今の中国と清朝とは、なんの関連もありませんが、清朝は中国の歴史の一部と捉えて、昔から台湾は中国に支配されていたのだという主張もあります。
実際には、中華人民共和国ができたのは1949年ですから、これはかなり無理のある主張と言えます。
終戦後から蒋介石は軍や官僚たちを先に台湾に送って実行支配を始め、1949年に国共内戦に敗れた蒋介石率いる国民党は台湾へ退却し、中華民国として統治を開始します。
ただし蒋介石自身も台湾を独立国と位置づけたわけではなく、あくまで「中華民国は中国全体を代表している」という立場を取り続けました。
つまり、台湾に逃れながらも、いつか本土を奪還するとの主張から、中華民国=中国と主張し、台湾はその一部との主張をしていたわけです。
Break ”犬が去って豚がきた”
1945年に第二次世界大戦が終結し、敗戦によって日本は台湾から撤退しました。
その後、蒋介石は中華民国として台湾を統治するために本土から官僚や軍の一部を台湾に送り込み、実質的に支配を開始しました。
当初、同じ漢民族の同胞がやってきたことを嬉しく思っていた人も多かったようですが、入ってきた軍のあまりにみすぼらしい姿を見て、歓迎のために集っていた人々は規律正しい日本軍との違いに驚き、また、その後の官僚の腐敗や高圧的な支配の仕方に反発が広がり、後のニ・ニハ事件などにつながっていきます。
台湾の人々は、去った日本を犬に、本土からやってきた国民政府を豚にたとえて「犬が去って豚がきた」と表現しました。
これは、犬はキャンキャン吠えてうるさかったが、番犬として役に立っていた(台湾のインフラを整備し学校を作って教育を施してくれた)。
だが、やってきた豚は自分たちの欲のために鳴いているだけ、つまり搾取するだけの存在だという意味を込めた言葉だったそうです。
ニ・ニハ事件
台湾の現代史を語る上で、避けて通ることができないのが、国民政府と台湾の人々との大きな衝突事件であるニ・ニハ事件です。
これは、1947年2月27日、台北市内で、当時禁止されていたタバコを闇で売っていた女性が専売局の取締官に見つかって暴行され、集まってきた市民がこれに抗議すると取締官はその市民に向けて発砲し、民間人を殺してしまったことから起きた事件です。
この出来事をきっかけに、翌2月28日には市民の怒りが爆発し、台北市内で大規模な抗議デモが発生しました。
人々は国民政府の腐敗や横暴な統治に対する不満をぶつけ、各地で役所や施設が占拠される事態に発展していきます。
しかし、蒋介石率いる国民党政府はこれを「反乱」とみなし、中国本土から軍隊を派遣して徹底的な武力弾圧を行いました。
その結果、数千人から数万人が犠牲になったとされ、台湾社会に深い傷を残しました。
台湾の人々にとって、これは単なる衝突ではなく「支配者が変わっても結局は抑圧される」という現実を突きつけられた瞬間でした。
この事件は後に「二・二八事件」と呼ばれ、台湾の人々にとって国民政府への不信感を決定づける出来事となりました。
さらに事件後は長期の戒厳令が敷かれ、政府に反対する者を厳しく取り締まる「白色テロ」へとつながっていきます。
その後、蒋介石が中国本土から内戦に敗れてやってきてからも、長い間戒厳令は解かれず、言論統制や暴力的支配は続きました。
台湾の人々が日本と本土から来た国民党政府について、”犬が去って豚がきた”と表現したのもわかる気がしますね。
※白色テロ:1947年の二・二八事件後から続いた国民党政府による弾圧体制のこと。長期の戒厳令下で反政府的とみなされた人々が逮捕・処刑され、言論や政治活動が厳しく制限された。この体制は38年間続き、世界最長の戒厳令となった。「白色テロ」という名称は、フランス革命期に王党派(白を象徴色とした勢力)が反対派を弾圧した歴史に由来する言葉で、後に「国家権力による政治的弾圧」を意味する一般的な用語となった。
国際社会の認識の変化
このように蒋介石が台湾を中華民国(=中国)として統治していたわけですが、国際社会の目は、次第に台湾ではなく中国本土へと向かっていきます。
1949年に中華人民共和国が成立すると、各国は「中国を代表するのはどちらか」という問題に直面しました。蒋介石率いる中華民国政府は「自分たちこそ中国全体を代表している」と主張し続けましたが、小さな島国でその主張を続けても、広大な本土に成立した中華人民共和国の方が、国際社会にとっては”今後もつきあうのにふさわしい国”として認知されやすく、国際社会は次第に中華人民共和国を「中国の唯一の代表」として承認するようになっていきます。
そして1971年、国連総会で中華民国(台湾)は国連の代表権を失い、中華人民共和国が中国の代表として国連に加盟しました。
この決定によって「中国=中華人民共和国」という国際的な認識が定着し、中華民国(台湾)は国際社会の場から大きく後退することになってしまいました。
こうして「中国=中華人民共和国」という国際的な認識が定着した結果、台湾は中国の一部だとする「共産党独裁政権」の主張が、あたかも既成事実のように広がっていったのです。まるで「嘘も100回言えば本当になる」とでも思っているかのように。
台湾の民主化と現在の立場
国民の民主化運動や国際社会の圧力もあり、長く続いた戒厳令は1987年にようやく解除され、台湾社会は大きな転換期を迎えました。
言論の自由が回復し、政党の結成や選挙が認められるようになり、台湾は急速に民主化の道を歩み始めます。
その前段階として、1975年に蒋介石が死去し、息子の蒋経国(しょう・けいこく)が後を継ぎました。
蒋経国は父の強権的な体制を引き継ぎつつも、時代の変化に合わせて徐々に改革を進め、最終的に戒厳令解除へとつながる道筋を作りました。
そして1988年、蒋経国が死去すると、後継に選ばれたのが副総統だった李登輝(り・とうき)です。
李登輝は台湾出身者(内省人)として初めて総統に就任し、民主化を本格的に推し進めました。
1996年には台湾史上初の総統直接選挙を実現し、国民が自らのリーダーを選ぶ体制を整えたのです。
これにより台湾はアジアでも有数の民主国家として国際的に評価されるようになりました。
さらに李登輝は、日本統治時代を経験した世代であり、その時代の教育やインフラ整備を肯定的に評価していました。
彼自身が日本語を流暢に話し、日本文化への理解を持っていたことから、日本と台湾の関係は大きく改善され、信頼関係が築かれていきました。
日本にとっても、李登輝の存在は「台湾は民主国家であり、価値観を共有できるパートナーだ」という認識を強める契機となったのです。
民主化を実現させ、言論の自由や選挙の実施など、国としての体制を整えてきた台湾ですが、国際社会における立場は依然として厳しいものです。
国連をはじめ多くの国際機関では「中国の一部」とされ、正式な加盟や参加は認められていません。
それでも台湾は、経済力や技術力、そして民主主義の価値を武器に、世界とのつながりを模索し続けています。
つまり、台湾は「国際社会からは国家として認められにくいが、実質的には独自の民主国家として存在している」という二重の現実を生きているのです。
実効支配の実態
国際社会では「中国=中華人民共和国」という認識が定着しました。しかし、ここで重要なのは「台湾が中華人民共和国に属する」という法的根拠は存在しないという点です。1949年に中華人民共和国が成立して以来、中国共産党が台湾を直接支配した事実は一度もありません。台湾は中華民国政府の統治下で独自の政治体制を築き、戒厳令解除と民主化を経て、現在では自由選挙による政権交代が行われる民主国家として機能しています。
つまり、国際社会が「中国=中華人民共和国」と認めたのはあくまで中国本土の代表権に関するものであり、台湾を中国共産党の支配下に置くことを承認したわけではありません。台湾は法的にも歴史的にも、中国共産党の実効支配を受けたことがないのです。
台湾の帰属をめぐる国際文書の空白
現在の中国共産党が、必死になって「台湾は中国の一部だ=台湾は共産党の支配下にある」と主張していますが、国際的な公文書などには、台湾の帰属先について明確にしたものはまったくありません。終戦以降の代表的な文書について見ていきましょう。
ポツダム宣言(1945年)
日本の降伏条件を定めた宣言で「日本の領土は本州・北海道・九州・四国および連合国が決定する諸小島に限る」と記されました。台湾は「日本の領土から外れる」とは示されましたが、「どこに帰属するか」は明記されていません。
サンフランシスコ平和条約(1951年)
日本は台湾に対する主権を放棄しましたが、台湾をどの国に帰属させるかは条約本文に書かれていません。つまり「日本の領土ではない」ことは確定しましたが、「中国の領土である」とはされなかったのです。
国連総会決議2758号(1971年)
「中国の代表権を中華人民共和国に与える」と決定したものですが、台湾の地位については一切触れられていません。国際社会は「中国=中華人民共和国」と認めたにすぎず、「台湾=中国の一部」と承認したわけではありません。
このように、中国(共産党)が主張する「台湾は中国(共産党)のもの」という”ひとつの中国”については、国際社会における様々な事柄に照らしても、まったく根拠がないのです。
最後に
高市早苗総理の「台湾有事は日本の有事」という発言は、自国の安全保障の観点から当然の認識を示したものであり、撤回を求める声は的外れです。
台湾の歴史と国際的な文書を見ても、中国共産党の「ひとつの中国」という主張には法的根拠がなく、国際社会においても既成事実化されただけにすぎません。
日本は今まで、中国との関係の中で、中国が理不尽な要求をしてきても、すぐにそれに従うような姿勢を見せてきました。
しかし、日本は民主主義国家であり、中国の支配下にある属国でもありません。
独立国家として、民主主義と自由を守る立場から、台湾の現実を直視し、安易に「押せば引く国」と見られるような態度を改める必要があります。
毅然とした姿勢こそが、国際社会における信頼を築く道ではないでしょうか。
台湾の未来は、日本の未来とも重なっています。
だからこそ、日本は民主主義国家としての責任を果たし、毅然とした姿勢を示すべきだと思います。