あじゃみんのブログ

美味しいものや、経営する雑貨店のこと、女性の心身の健康について、その他時事ネタなど好き勝手に書いているブログです。

あったことをなかったというのもダメだし、なかったことをあったというのもダメでしょ。

Amazonプライムで「否定と肯定」(原題:Denial)という映画を観た。

2016年(日本公開は2017年)のイギリスとアメリカの合作映画だ。

ストーリーは、実際に起きたイギリスの歴史家デヴィッド・アーヴィングとアメリカのホロコースト研究者であり大学教授のデボラ・E・リップシュタット(ユダヤ人)の名誉棄損裁判を描いた作品で、裁判自体は実際に起きたことだが、映画はドキュメンタリーではなく俳優を使ったエンターテイメントなので、事実と異なる演出がそこかしこにあって、やり過ぎかなと思うところもあった。しかし観ている当初はどこが演出かなんてわからなかったから、その部分は後から色々な物を読んで知った話だ。

アーヴィングは、若い時から注目されてきた歴史家というより作家だったが、だんだんとナチスに傾倒するようになったのか、ヒトラーを肯定するようになっていった。

アウシュビッツのガス室でのユダヤ人大量虐殺については、当初は「ヒトラーは知らなかった」と言っていたが、最後は「ガス室での虐殺はなかった」に変わっていった、いわゆるホロコースト否定論者だった。

映画の最初に史実ではないアーヴィングとリップシュタットの対決場面が出てくるが、ここでリップシュタットの「否定論者とは議論・論争はしない」という姿勢が明かされるためだった。

どうしてそのようなことが起こったのかということは議論するが、実際にあったことを否定する者と議論しても、時間の無駄だというのだ。

プレスリーが死んだというのは事実だが、世の中には実はプレスリーは死んでおらず、どこかでひっそりと生きているということを信じている人がいて、そんな人たちにいくらプレスリーは死んでいるのだという”証拠”を提示しても「プレスリーは生きている」ということを信じたい人たちには意味を成さない。

だから、ガス室などなかったという人間にいくら今までの証拠を提示して、あったと言ったところで、見たいように見ることしかしない人を相手にするのは意味がないというのだ。どこかしらで両者が対峙したとしても、事実によって自説を「修正」する気がない人々と議論したところで、時間の無駄になるだけだ。

興味深いイギリスの司法制度

リップシュタットは著書の中でアーヴィングを批判しているのだが、それが原因で出版社ともども名誉棄損で訴えられてしまう。

リップシュタットはアメリカ人だが、アーヴィングはイギリスの司法を使って裁判をしようとした。それは、イギリスの名誉棄損裁判は、アメリカとは逆で、訴えた側ではなく訴えられた側(被告側)が自分が行った行為が正当であるということを証明しなければならない。

否定論者と論争しないとしていたリップシュタットがそのせいかどうかはわからないが、アーヴィングに裁判に引っ張り出されて「ホロコーストがあったのかなかったのか」という立証をさせられることになってしまった。

つまり、自分がアーヴィングを批判したのは、実際に起こったナチスによるユダヤ人大虐殺(ホロコースト)をアーヴィングが「なかったこと」にしているためで、その批判が「正しい」と証明するには、実際にガス室があって、ユダヤ人が虐殺されたという事実を裁判で証明しなければならないのだ。

この裁判には、ダイアナ妃の離婚裁判で名をはせた弁護士のアンソニー・ジュリアスが無償で弁護すると名乗り出ている。このジュリアスは事務弁護士で、実際に法廷に立つ法廷弁護士は別にいる。

ここがイギリス司法のややこしいところで、ジュリアスが法廷以外の法的な事務を取り仕切る事務弁護士(ソリシター)として証拠集めや何かをするが、実際に法廷で弁護するのは法廷弁護士(バリスター)なんだとか。イギリスではこのどちらかの資格で働くのが普通で、両方の資格を持つ人はいないそう。

中世の裁判のようにカツラを被って昔のコスチュームで法廷に立つのも本当のようで、大真面目な裁判でそんな感じなので、日本人としてはちょっと変な気持ちになった。

これは本当かどうかは調べてもわからなかったが、当初裁判で判事に「おじぎ」をしてと言われたリップシュタットが「私はアメリカ人よ、おじぎなんてしないわ」と一人で抵抗する場面があり、郷に入っては郷に従えというのを知らないのかと笑ってしまった。

ただ、このシーンは終盤のある場面の伏線として必要な場面になっていた。

自分で自分を弁護する

イギリスの名誉棄損裁判では、前述の通り訴えられた側が自分の行為の正当性を訴えなければならない(実際にはそれ以外の戦術も考えられたが、それらはリップシュタットの主張を考えると使えなかったため、事実を事実と証明する必要が出てきた)が、訴えた側はそのような証明はしなくて良いため、それに関連した質問に答えるくらいしかないので弁護士は立てずに自分で法廷に立つことも可能だ。アーヴィングは「自分のことは自分が一番わかる」として、弁護士を立てずに自分で法廷に立った。

最初は威勢のいいことを言っていたアーヴィングだが、だんだんとリップシュタット側の準備した証拠や証言で追い詰められていく。

 

リップシュタットの裁判回顧録(なかなか読み応えがあります)

作家・橘玲(たちばな・あきら)氏の解説がなかなか面白い。

なぜこの邦題ではダメなのかがよくわかるので、ぜひ読んでみてください。