衆議院議員の杉田水脈さんが新潮45に書いた“「LGBT」支援の度が過ぎる」※”という文章の中にある「LGBTは生産性がない」というのが「差別的」だと話題になり、相当炎上しているというのは知っていたのですが、正直「また切り取りか」と思ったので、批判記事を読んだり、ネットに上がっている動画なども見ないようにしていました。
別に杉田さんが「正しいことを言っているのに一部を切り取られたんだろうな」と想像したわけではなく、文章というのは全文を読まずに批判するのはおかしいと思っています(これは文章だけではなく発言もそうですけど)から、一部を抜き出してどうこう言っているのを見る気にもならなかったし、聞きたくもなかったという意味です。
その後、なんだかこのことでデモをする人もいたり、杉田さん当人やご家族に殺人予告がくるなんていうこともあって、随分すごいことになってきちゃったのね・・・という訳で、初めてその文章に興味を持った次第です。
そもそも、私自身このLGBT(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)と呼ばれる人たちについて、どう思っていたかをまず書いてから次に移りたいのですが、正直言って「なんとも思っていません」というのが本音中の本音です。
もともと女性が女性を好きであるとか男性が男性を好きであるとか、そういうのって「あってもおかしくはない」と思っていたこともあります。
小さい頃から例えばゲイと呼ばれる人がいるというのを聞いて知っていたりして、そういう風な人もいるんだなと、子供ですから深いところまではわからなくても、違いがあるという程度の理解はありました。
ただ、そういう人たちがある意味「特別視」されているという感覚はありました。
まだ社会で肯定的に認知されていた時代でもなかったので、みんなそこまで差別意識はなくても「普通」じゃない、という感覚は持っていたかも知れません。
小学生の頃、叔母(叔母というか、祖母の妹ですからなんて言うんでしょうね?)とふたりで歩いていた時に「あの人、ゲイなのよ」と私に言いつつ、私が「あの人」と呼ばれた人を見ようとすると「見ちゃダメ!」と叱られて、説明しているのに見ちゃダメってどういうこと?と意味不明な経験をしたことがあります。
その後の話から、叔母がそういう人を嫌悪しているという印象は全くなかったのですが、触れちゃいけないとか、大っぴらにすることじゃないという感覚はあったのかと思います。
なのに何故「なんとも思っていない」大人になったのかというと、もしLGBTの人が周りにいたところで、私自身なんら不利益を被るわけでもないし、実際にそういう人が周りにはいなくて、そこまで深く考える機会もなかったからだと思います。
とはいえ、逆にLGBTの人たちを「嫌悪」する人がいたとしても、「そういう人もいるだろうな」とも思います。
肯定するというより、理解できるという感じ。
人間、価値観というのはなかなか変えられるものでもないし、もともと「人とはこうあるべし」みたいな人たちはなかなか「普通」と思えない人に共感するというのも難しいでしょう。
だからといって、自分と違う人たちを排除したりする社会であってはいけないという思いはあります。
長くなるので続きます。
※杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』57-60.『新潮45』2018年8月号。